オリンピックエンブレム問題から妄想する日本文化

今日、しばらく(日本で)世間をお騒がせしていた佐野研二郎氏のオリンピックエンブレムが撤回されるとのニュースがあった。

パクリ問題があったとは言え、私個人的にはこの最終案のエンブレムは結構好きだった。
現代作品風でモダンかつAmbiguousでありながら主張も感じられる。

などと偉そうに言ってみたりして。

この一件、もともとシンプルなロゴデザインなんだから、似てしまう事なんていくらでもあるだろう、と思っていたのだが。

ネット民の凄まじいリサーチ力によって暴かれた内容を見ると、やっぱりパクって簡単に仕事を片付ける体質があったのかなあ、と思ってしまう。(本当にパクったのかどうか、ネット民の言ってる事が真実かどうかは結局わからないのだが)

 オリンピック組織委員会から許可取ってないがパクって写真を載っけてしまおう。


パクリ体質が問題なのは佐野氏個人なのか、広告アート業界全般なのかよく知らないが、やれアート(芸術)だとかクリエイティブだとかにビジネスが絡んでくると基本的にろくなことが無い。

音楽もそう。私は音大を出ていて音楽には造詣が深い(と思いきって言ってしまおう。この際。)が、それで食ってる所謂「プロ」と言われる人の作品であっても、

何じゃこりゃ?
アーティスト?
クリエーター?

アホか。
と一蹴してしまいたくなるブツが多い。そりゃ〜もう、ひどいもんだ。

これは個人的な意見だが、音楽を始め芸術といわれるモノの本当の良さはその芸術をよく知っている人間にしかわからない。批判を恐れず言ってしまえば、結局一般の人々にはアート(芸術)はわからんのだ。

例えば、普通の人にグレン・グールドとジュリアード音楽院ピアノ科の学生、両者のバッハの演奏を聴かせたらどっちがどっちか、どっちが良いのか、なんてわからないだろう。ジュリアード音楽院の学生だってそれなりのレベルだから。結局そういうもんだ。

だけどこのアート(芸術)がビジネスとして成り立つためには、一般の人がわかる代物でないとビジネスとして成り立たない。

そんなわけで才能あまり無いビジネス上手な「なんちゃってアーティスト」「なんちゃってクリエーター」が多数産まれてしまう。そしてこの「なんちゃって」が業界の大物になり、さらなる「なんちゃって」を発掘し、業界自体がなんちゃっての巣窟になっていく・・・

ちょっと言い過ぎか。

ここで問題なのは、本当に才能のある、スポットライトの当たるべき人にライトが当たっていないのではないか。ビジネス優先のために埋もれていく才能の持ち主が沢山いるのではないか、という事。

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ところで最近の日本は、佐野研二郎氏のパクリ問題を始め、偽ベートーベンこと佐村河内守氏やSTAP細胞の小保方晴子氏など、グローバルレベルの問題児が出てきてなかなか楽しい。

佐野氏は佐村河内氏や小保方晴子氏の様な謝罪会見は行うのだろうか。会見するならどこまで本当のことを言うのだろうか。

というのも日本のこの手の会見はいつもあやふやな会見に終始してすっきりしない。謝罪しているような言い訳しているような、なあなあにしてことを荒立てずに批判の波が消え去るのを待とう、みたいな・・・

一方、謝罪と言えば思い出したのが、米国のオプラ・ウィンフリーの番組でのランス・アームストロングの薬物使用の告白だ。

自転車競技でレジェンド的な偉業を成し遂げてきたアームストロングが長年否定し続けてきた薬物使用をついに番組で認めた。涙を流しながら「もう洗いざらい全てを告白します」って感じだったと思う。(まあオプラ番組のマーケティングと合致してビジネス臭いが)

それらを思い出すうちに、こんなことを考えた。 欧米を始めとするキリスト教圏の人たちは、「罪、失敗、恥などをすべて告白することで自己救済を得られる」と考えるようだ。

昔 10代の頃、アメリカ交換留学時にホームステイさせていただいた家庭が敬虔なモルモン教徒で、日曜日はいつも教会に行ったのだが、そこでは週ごとに1人ずつ壇上に上り懺悔(罪の許し)をする、というイベント?(儀式?)が行われていた。細かい内容は忘れてしまったが、皆の前で罪(犯罪まで行かなくても単に悪いと思われる事柄、恥など)の告白をし許しを請う、というものだったと思う。

一方、日本人はどうだろう。たぶん「恥は自分と一緒に墓場へ持って行く」文化ではないかと思う。

ビジネス界でもオリンパス問題にしろ東芝問題にしろ、残念ながら自浄作用がなかなか働かないのが日本の文化だ。

そう考えると、明日(9月2日)は連合国側から見た日本ーアメリカ間の終戦記念日なのだが、日本の謝罪がいつまでたっても受け入れられないのもなんとなく合点が行く。

よく「ドイツと違い日本は謝罪が足りない」と言われる。

 個人的には、これは単に「周辺国がオトナで許してくれる土壌があった」ドイツと、「周辺国があんなんでいつまでも許してもらえない」日本の違いだと考えていたのだが、違う見方もできそうだ。

ナチスが何をやったのか徹底的に調べて全てを告白したドイツに対し、日本軍が行った蛮行(例えば南京事件とか)に関しては、いつまでもうやむやで本当に何があったのか、そもそもあったのかどうか、あったのならどれだけの規模であったのか、なんかうやむやでよくわからない、というのが多くの日本人の印象だろう。
(だがかつて見たBBCの南京事件ドキュメンタリーでは元日本兵士が複数出演して告白しており、何らかの蛮行があったのは間違いなさそうだ。 )

かつての兵士が「告白して贖罪」の文化であるドイツと、「罪、恥は墓場へ持って行く」文化で実際何があったのか表に出て来ない日本、という違いも影響しているかもしれない。

そして、日本人の謝罪会見はいつも、

 謝罪しているような言い訳しているような、なあなあにしてことを荒立てずに批判の波が消え去るのを待とう、みたいな・・・ 

そんな感じ。

というわけでまったく話が脇道へそれてしまったが、佐野研二郎氏には業界ひっくり返すくらいの潔い全告白を期待したいと思ってます。


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